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絶対押さえておくべき内容
世界遺産の名前と場所。これは絶対に押さえておいて下さい。
世界遺産は入試でもかなり高頻度で出題,特に中学入試においては必須と言ってもいいぐらい狙われますので,世界遺産をベースに社会の勉強を広げておくと,勉強が格段に進みやすくなります。実際に子ども達から聞かれた内容をまとめてみましょう。
まずは絶対に押さえておくべきもの。
百舌鳥・古市古墳群って何?
百舌鳥・古市古墳群(もず・ふるいちこふんぐん)と読みます。場所は大阪府の大阪平野に位置し,堺市(さかいし),羽曳野市(はびきのし),藤井寺市(ふじいでらし)に渡って広がっています。仁徳天皇陵(にんとくてんのうりょう)はこの古墳群の中だけではなく,日本の古墳の中でも最大で,教科書にも必ず乗っている代表的な前方後円墳(鍵穴のような形の古墳)。
古墳が作られたのは古墳時代(3~7世紀頃)で,現存する49基の古墳が登録対象となっています。
古墳の何がすごいの?
古墳とは貴族や権力者のお墓のことを指し,古墳があるということは,その時代に権力者がいたことを意味します。また,その古墳の形や大小から権力の規模も予想ができ,社会や政治の様子を垣間見ることができます。そのため古墳は古墳時代の象徴ともいえるもので,今回の百舌鳥・古市古墳群ではその古墳が密集して残っていることもあって重要な遺産と認定されたのです。
ちなみに古墳時代の墓を古墳と言いますが,それ以降の墓は墳墓(ふんぼ),墳丘墓(ふんきゅうぼ)と言います。
古墳時代ってどんな時代?
古墳時代は3世紀~7世紀頃を指し,弥生時代と飛鳥時代の間に位置する時代。以前は大和朝廷(やまとちょうてい),大和時代とも言われていたので,今の親世代は古墳時代よりもなじみがある言い方かも知れません。現在では大和朝廷という言い方はせず,教科書でもヤマト王権,古墳時代に変わってきています。(学習指導要領はまだ大和朝廷のままです)。教科書にも出てくる歴史年表と照らし合わせると以下のようになります。
- 239年 邪馬台国の卑弥呼(ひみこ)が魏(ぎ:当時の中国)に使者を送る。ここはまだ弥生時代に区分される。
- 285年 漢字が伝来。年号は諸説あり。ここからが古墳時代に区分される。
- 400年頃 仁徳天皇陵(大仙陵古墳)が作られる。
- 478年 雄略天皇(獲加多支鹵大王:ワカタケルだいおう)が宋に使いを送る。獲加多支鹵大王は埼玉県の稲荷山古墳から出土した鉄剣に刻まれていた銘文で,教科書にも写真が載っています。
- 538年 百済(くだら,ペクチェ)から仏教が伝来。
- 587年 丁未の乱(ていびのらん)。蘇我馬子(そがのうまこ)が物部氏(もののべし)を滅ぼした乱。崇峻天皇(すしゅんてんのう)が即位。
- 593年 日本初の女帝,推古天皇(すいこてんのう)が即位。聖徳太子(厩戸皇子:うまやどのみこ)が摂政(せっしょう)となる。教科書ではここからが飛鳥時代。
古墳時代はまだ漢字が伝来したばかりで,記録が曖昧なためわかっていないことも多く,それより前の縄文,弥生時代に関しては文字がなかったため,中国の歴史書に書かれている記述の範囲でしか記録が残っていません。
日本という国名はいつから?
日本という名称が使われたのは,記録に残っている限りでは701年の大宝律令(たいほうりつりょう)からで,それ以前は倭(わ)と呼ばれていました。大宝律令は教科書にも載っている重要な法律で,日本最初の律令(法律)です。律というのは今でいうところの刑法,令というのは行政法を指します。
なお邪馬台国(やまたいこく)は倭国の中の国の1つで,「和」は「倭」から来た言葉です。
仁徳天皇陵ってなに?
正式には大仙陵古墳(だいせんりょうこふん)や大山古墳(だいせんこふん)と言われており,5世紀前半から20年ほどかけて,現在の大阪府堺市堺区大仙町に作られました。教科書や資料集でお馴染みの鍵穴型の古墳(前方後円墳)で,このタイプを前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)と言います。
大仙陵古墳は日本最大の古墳で,その大きさは約650m×850mで高さは40m。宮内庁が管理しているため,基本的には入ることができず,発掘調査も宮内庁以外の外部の専門家が行ったのは2018年が初。
江戸時代には既に仁徳天皇陵と呼ばれており,仁徳天皇の墓と考えられていますが,既に盗掘にあっており,仁徳天皇の墓だとする根拠は得られていません。そのため,地域名である大仙陵古墳,大仙古墳と呼ぶ方がいいのではないかという事になったのですが,仁徳天皇陵の方が世界的にも広く広まってしまっていたため,併用されています。
仁徳天皇って?
仁徳天皇は第16代天皇で,古事記や日本書紀にも名前が出てきます。民家から煙が上がっていないのを見て貧困に気付き,税を免除,自らも質素な生活をしていたとされる国民に優しい天皇として書かれています。ところがあくまで名前が残っているだけで,証拠が残っているわけではないため,実在しているかは定かではありません。
おそらく実在していただろうと考えられているのは第10代崇神(すじん)天皇からで,実在がほぼ確実と思われているのは第21代の雄略天皇からで,実名である獲加多支鹵大王と刻まれた刀が発見され,さらに中国の書にも出てくるためです。しかし実在は定かではないものの,初代神武天皇から昭和天皇の陵墓まで一応一通りそろっています。この辺りは子どももよく興味を持つところなので話してみて下さい。
百舌鳥古墳群の名前の由来は?
百舌鳥(もず)というのは鳥の名前で,「はやにえ」という捕らえた獲物を木の枝等の鋭くとがったものに刺す習性があります。何のために刺すのかはよくわかっていませんが,繁殖のためとか保存のためとか,諸説はいくつもあります。モズの名前の由来もはっきりせず,百を「もも」と読むことから,沢山の声を出せるというところからだという説も。
なぜこの古墳群が百舌鳥と呼ばれるのかについては日本書紀に「仁徳天皇陵の近くで鹿の耳の中を百舌鳥がつついて食べていたというところから百舌鳥耳原と呼ぶようになった」とあります。
百舌鳥・古市古墳群の構成資産は?
45件49基の古墳が登録されていますが,教科書に載っているのは仁徳天皇陵(大仙陵古墳,大山古墳)くらいでしょう。応神天皇陵も構成資産の1つですが,こちらは国内2番目の大きさの古墳です。
ちなみに大阪の世界遺産登録は今回が初めてです。
どうやって勉強に活かせばいい?
どの年代の子に話すかにもよりますが,百舌鳥・古市古墳群はまずその神秘性が子どもにウケます。世界遺産にも関わらず未だに謎だらけですから(笑)さらに古墳時代の話は力(パワー)が物をいう時代で,イメージしやすい世界なためやはり子どもには受け入れられやすいところです。どうせ正しい答えなんてわかっていませんから,あれこれ想像をめぐらさせて勝手な想像をさせておくと印象に残りやすくなります。
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