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なぜ広島、長崎に原爆が落とされたの?原子爆弾って何?

広島の原爆ドーム

受験でも必須の8月6日と9日

1945年8月6日と8月9日。

それぞれ何の日か、小学生でもこの日については知っているはず。

そう、8月6日は広島に原子爆弾が落とされた日。

8月9日は長崎に原子爆弾が落とされた日。

そしてこの日のテレビは戦争に関するテーマであふれかえります。

今や戦争を知らない子ども達だけでなく、戦争を知らない大人たち、の時代に突入しています。

受験でも必須な部分ではありますが、平和とは何なのか、再認識するきっかけにして頂ければと思います。

ここではファイの塾生たちの疑問を中心に、受験でも使える部分に絡めてお話していきます。

年号は覚える必要ある?

年号という事に関していえば、覚えておくべきなのは日本国憲法の公布と施行。

  • 1946年11月3日 日本国憲法の公布
  • 1947年5月3日 施行

「幾夜も労して人々賛成、翌年誤算で施行した。」

終戦を迎えたのはその前年

原爆を投下されたのもポツダム宣言を受諾したのも前年。

真珠湾攻撃をして太平洋戦争が開始されたのが5年前の1941年11月。

これさえ押さえておけば、あとは時系列から大体わかりますので、覚える年号は日本国憲法の公布だけで十分です。

原子爆弾ってなに?

広島の原爆ドームは教科書にも載っていますから、その凄さ自体は何となくわかっているでしょう。

しかしあれだけでは実感がわかないので、もうちょっと補足説明をしてあげて下さい。

まず興味を持つのは原子爆弾の爆発の様子。

原子爆弾は原爆ドーム付近の上空600mの地点で爆発しました。

600mというと、大体雨雲の高さくらいです。

そして爆発から1秒後には直径280m、40万度の火球が出現。

半径2km地点までの温度は4000度にもなりました。

4000度と聞いてピンとくるでしょうか。

太陽の温度が6000度で、黒点の温度が4000度

徹の溶ける温度が1500度で、石が溶ける温度が2000度。

広島に一瞬太陽が出現したような状態になったのです。

このイメージができれば、その威力も惨状も子ども達は予想できます。

つまり、一瞬でほぼすべてのものが溶けて蒸発したのです。

さらに爆発により衝撃波が発生し、秒速200~400mという爆風が広島を襲いました。

秒速200mといってもピンとこないと思いますが、時速720~1400kmと言えばどうでしょう。

これはジェット機から戦闘機の飛行速度並みの速さ

アメリカ同時多発テロではジェット機がビルに突っ込んだことにより、世界貿易センタービルが倒壊しています。

それぐらいの衝撃と熱が一瞬の間に広島を襲ったのです。

その結果、半径1km以内の人は肉や服を一瞬で焼かれ、さらに爆風で吹っ飛ばされて即死

レンガ造りの建物は表面が溶けて沸騰、衝撃波で吹っ飛ばされました。

ガラスも一瞬で溶けて、爆風で吹っ飛ばされました。

当時の広島の地層には、溶けて沸騰した石、飛び散った液体のガラスが染み込んだ砂、人の影の跡といった、自然にはありえないような状況が残されています。

なお、人影石と呼ばれるものについては、できた経緯に諸説があり、ハッキリしたことがわかっていません。

どれくらいの被害が出たの?

広島には約35万人いて、その内6000人以上が即死。

14万人が年内に亡くなっています。

長崎は約24万人いて、年内に約7万人が死亡、約7万人が負傷しています。

原爆の被害は大きく3つ。

  • 熱線 ⇒ 焼失、火災
  • 爆風 ⇒ 倒壊
  • 放射線 ⇒ 後遺症

この中でも放射線の被害は当時わかっておらず、死の灰と呼ばれる放射性物質や黒い雨によって被爆した人が、戦後まで多数います。

このあたりは学校の教科書でもストーリーを交えて出てくるため、ちょっとした予備知識を持っておくだけでも理解が深まります

放射線って何?

原子核が崩壊するときに、今までくっついていた分のエネルギーが放射線として放出されます。

この辺りは原子の構造を知らないと理解できないため、子どもが興味ありそうなら、原子の構造から説明してあげて下さい。

もしそこまではという感じなら、概要のみに留めるのがいいでしょう。

放射線にはいくつか種類があります。

  • α線(アルファせん):一番弱く、紙1枚で防げる。
  • β線(べーたせん):薄い金属板で防げる。
  • γ線(ガンマせん):10cmの厚さの鉛で減らせる。
  • 中性子線:厚さ50cm以上の水やコンクリートの壁で減らせる。

放射能の被害は、主にガンマ線や中性子線によっておきるため、通常の建物の壁程度では防げないのです。

放射能による被害を受けると、遺伝子が破壊されてしまうため、がんになりやすくなります。

放射能による被害は様々な所、様々な病気として表れてしまうため、原爆による被害はまとめて原爆症と言っています。

何で広島、長崎だったの?

日本への原子爆弾投下はアメリカのマンハッタン計画の1つでした。

つまり、原子爆弾を製造し、実際に投下、その様子を調べる。

これが目的でした。

日本の主要都市を攻撃した爆撃、大空襲とは全く性質が異なる爆撃だったのです。

よって、日本を空爆するにあたり、原子爆弾の投下目標候補都市は予め外されていました。

京都も目標に入っていましたが、京都を訪れたことがある陸軍長官が、文化的な価値の高さから猛反対し除外されたことは有名。

7月25日に原発の候補地となった都市は以下の通り。

  • 新潟市
  • 広島市:捕虜収容所がなかったため第一目標に。
  • 小倉市(現:北九州市):当日曇りだったため除外。
  • 長崎市:投下予定日に唯一晴れていたため、決行された。

なお、マンハッタン計画で作られた原子爆弾は3つ

1つは広島に投下する約3週間前(1945年7月16日)にトリニティ実験としてアメリカのニューメキシコ州の砂漠で爆破。

これが人類初の核実験となりました。

その後、1945年8月6日広島ウラン235を用いたリトルボーイと呼ばれる原子爆弾がB-29「エノラ・ゲイ」により投下。

さらに8月9日には長崎プルトニウム239を用いたファットマンと呼ばれる原子爆弾がB-29「ボックスカー」により投下されました。

つまり、アメリカはこの3発の原爆を実験したかったため、ポツダム宣言を受け入れる期間を待たず、短期間に投下したとも言われています。

日本も原爆を開発しなかったの?

実は日本でも原爆の研究、開発が行われていました。

1940年に理化学研究所仁科芳雄に陸軍が話を持ち掛けたのが最初と言われています。

真珠湾攻撃をしたのが1941年11月

マンハッタン計画が動き出したのが1939年なので、日本は太平洋戦争が開始する前から原子力には着目していたことになります。

仁科芳雄は、化学の量理論でお馴染みのボーアの下で学んでいました。

そしてこのボーアは後にマンハッタン計画に参加する科学者の1人。

さて、話を持ち掛けられた仁科芳雄はどうしたかというと、実は断っています。

仁科は、ドイツやアメリカが既に原爆の開発に着手していること、莫大な予算がつぎ込まれていることを耳にしていました。

そのため、日本の低予算では開発できない、アメリカですら成功するかどうかと考えていました。

しかし1943年にガダルカナル島を撤退し、連合艦隊司令長官である山本五十六が撃墜され死亡、戦況が一気に悪化。

軍は仁科へ原爆の開発依頼を度々するようになり、仁科もこれを受け、二号作戦と命名されました。

しかし日本はウランを手に入れることができず、国産ウランも検討されましたが、とても原爆に利用できるような濃度ではなかったため、仮にそのまま研究していたとしても原爆は完成させられなかったと言われています。

なお、仁科は後にノーベル賞物理学賞を取る湯川秀樹朝永振一郎(ともながしんいちろう)を教えており、もし仁科が原爆の開発を引き受けなければ、彼ら物理学者を戦争から守ることも、研究を発展させることもできなかったと言われています。

原爆の被爆国は日本だけ?

原爆の被害を実戦で受けたのは日本だけです。

簡単に放射能関係の大規模被害をまとめると次のようになります。

  • 1945年8月6日:広島原爆
  • 1946年8月9日:長崎原爆
  • 1979年:スリーマイル島原子力発電所事故
  • 1986年:チェルノブイリ原子力発電所事故
  • 2011年:福島原子力発電所事故

細かい事故を挙げれば他にも沢山起きていますが、数万人規模の被害となったのはこの5つ。

そしてこの内の3つは日本で起きています。

日本人でも原爆の恐ろしさを知らない世代が増えてきたのと同様、世界では原子力発電事故の恐ろしさを知らない人達が大勢います。

日本人として、テストに出るから覚えるのではなく、自ら学び、自分の意見をしっかりと持てるようになってもらいたいものです。

参考資料・ウェブページ

あまり知られていませんが…

実際に行ったことがある人ですら知らない人がいるようなのでちょっと紹介。

広島平和記念公園の中にある原爆死没者慰霊碑の前に立つと、その奥に平和の灯という炎が見えます。

そしてその奥には原爆ドームがあり、一直線に並んでいます。

つまり、慰霊碑の前に立って見ると、原爆ドームが燃えているように見えるのです。

また、原爆に関する観光というと、原爆ドーム、広島平和記念資料館となりがちですが、同じ平和記念公園内に国立広島原爆死没者追悼平和祈念館というものがあります。

こちらはみて一目でわかる資料自体は少ないものの、被爆体験の証言ビデオや追悼記などが閲覧、視聴できるため、より深くじっくり学びたい方にはオススメです。

教科書で学んだ歴史と、実際に見たものとは、やはり雲泥の差。

塾生でも広島、長崎を見てきた子の理解度、食いつきはやはり別格。

机上の勉強にとどまらず、できれば一度は見せてあげて下さい。

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1981年生、千葉県出身の学習法診断師。独自の教育論、常識外れの教育手法を用いて、大手進学塾で実績、成績上昇率共にトップを取り続け、個別指導塾、家庭教師でもミラクルと言われる多数の逆転合格を打ち出す。2013年に進学塾PHIを作り、2015年に株式会社学習法指導塾PHIを設立。子供たちを対象とした勉強のやり方の指導を初め、親へも教育に関する子育て指導を実施。教育活動の一環として、高校や大学での指導、セミナー活動、塾や学校の先生など教育者に対するコンサルティング、動物介在教育など、多岐にわたって教育業に携わる。

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