地名の由来は結構入試に出る
地名の由来というのは、結構入試でも題材になります。
もちろん知っていなければいけないわけではありません。
知らなくても解けるようにはできていますが、知っていると気持ち的にもちょっと有利になるもの。
また、地名の由来に興味が持てるということは、他のものにも興味が持てるということ。
今回はその中でも、蘇我の子ども達が興味を持っている「幕張」という地名に焦点を当ててお話致します。
実は幕張という地名がいつどのようについたのかハッキリしたことはわかっていないのですが、諸説はいくつかあるので紹介しましょう。

「馬加はり」説
おそらくこれが一番有力な説だと思います。当時の馬の使い道としては,戦いや移動で使う馬と,神事で使う馬の2通りがありました。「馬が加わった」というのがどちらの馬を指すのか定かではありませんが,源頼朝が馬を乗り換えて移動したという説や,この辺りの神社の神事で馬を使うために大規模な馬牧場と馬市場があったたという説があります。
「馬加わり」は「まくわり」と読み,昔の書き方で書くと「まくはり」と書きます。これをこのまま読んで地名としたのが「馬加村(まくわりむら)」。ここの漢字が変わり,現在の「幕張」に。どこでどうして漢字が変わったのかもわかっていませんが,「馬加」が「バカ」に見えることから変えた気もします。
「源頼朝が陣を構えた」説
源頼朝がこの地で陣を構えた,天幕を張ったというところから,「幕を張った」⇒「幕張」と転じた説ですが,そうなると「馬加村(まくわりむら)」の説明がつかないため,おそらく明治時代に村を統合して幕張町として漢字を変えたときの後付けだろう説が有力。
「馬の市場の幕」説
馬加村では馬を育てて売っていた(馬の市場だった)という話もあり,その市場は大規模に幕を張っていたことから,幕張という地名になったという説。この場合もやはり馬加村が先に来るので,明治時代に村を統合して幕張町として漢字を変えたときに幕を張って市場をやっていたというのになぞらえたと考えられます。
「馬加康胤(まくわりやすたね)命名」説
馬加康胤(まくわりやすたね)は元々千葉氏で,千葉常胤(つねたね)の子孫にあたります。そのため元々は千葉康胤(ちばやすたね)だったのですが, 馬加城 に入ったことから,馬加康胤に。馬加城は千葉常胤の子どもが建てたとされているので,このときの名前が既に馬加城なら,馬加康胤が馬加村と名付けたわけではないということになります。が,馬加城は現存しておらず,どこにあったかもわかっていないため,詳細は不明。
「貝殻の幕」説
幕張周辺の子を教えていると,教えやすいからなのか,覚えやすいからなのか,海岸沿いに貝殻が大量にあふれかえり,幕のように見えることから幕張と名付けたという説の話を時々聞きますが,一番信憑性がありません。同じ千葉市内に貝塚があるだけで貝塚町という名前がついているのですから,貝殻がちらばっているのなら,貝殻町とか貝殻浜とかいう名前になる方が自然。なぜ幕にこだわったのかの説明もできませんし,馬加村,馬加城の名称の説明もつきません。

地名から掘り下げると歴史に触れることはできますが,子どもだけで調べるにはちょっと難しすぎる内容が沢山でてきます。こういう時は,子どもが知っている内容と絡めてくれる補助が必要。そのため,どうしても大人の手があった方がはかどりますが,補助ができれば子どもの知識はすごい勢いで増えていきます。難しすぎて諦めがちな内容でもあるので,うまく興味の糸を切らさないようにつなげてあげるのがポイントです(^^)
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